2013年度の活動

2014.3.29 親睦日帰りバス旅行 ~歴史の街・佐倉・四街道を訪ねて~

昨秋台風のため延期されていたバス旅行が2013年度最後の行事として、会員ら計42人が参加して行われた。このバス旅行は、会員相互の親睦を図ると共に地域に対する理解を深めることを目的としているが、今回は更に、若手会員や千葉大学に留学しているドイツ人との親睦を図り交流を進めることにより、文化・社会面における若者交流・活動に役立てようというねらいもあった。
このため、若手会員やドイツ人留学生を勧誘したが、旅行当日に留学生たちがインフルエンザ感染により参加できなくなり、会員たちは残念がることしきりであった。
陽春の青空の下、ドイツとの関わりの深い佐倉市と四街道市周辺の歴史的施設見学に胸を躍らせつつ、千葉駅前を定刻よりやや遅れて出発した。車内では、近藤貴子氏(会員)作成による資料を参考にしつつ施設を見学した。

<佐倉順天堂記念館>
佐倉順天堂は藩主堀田正睦(まさよし)の招きを受けた蘭医佐藤泰然が天保14年(1843)に開いた蘭医学の塾で、近代医学の発祥の地。その後、ドイツ医学からも大きな影響を受けている.西洋医学による治療と同時に医学教育が行われ、佐藤尚中をはじめ明治医学界をリードする人々を輩出した。現在、1858(安政5)年に建てられた建物の一部が残り、これを記念館として公開しており、顕微鏡や手術器具なども見学した。



<佐倉高等学校記念館、地域交流施設>
千葉県立佐倉高等学校記念館は、旧佐倉藩主堀田正倫(まさとも)の寄付により1910(明治43)年に建築され、当初は本館として使用されていた。塔やドーム屋根を持つ明治期の木造洋風建築物として貴重な建物である。

1975(昭和50)年に改修工事が行われ、現在は主として学校の管理棟として使用されていて、国登録有形文化財になっている。藩校として創立した佐倉高等学校が、1889(明治32)年に県立に移管されて100周年の記念事業の一環として校内に建築された県立佐倉高等学校地域交流施設は、1999(平成11)年に開館した。
1階には展示室と研修室があり、2階は収蔵庫となっている。展示室には鹿山文庫関係資料(県指定文化財)など多数の古書籍、順天堂関係書籍、旧制佐倉中学校時代の教材、教具などを見学し、歴史の深さを実感した。

<旧堀田邸>
旧堀田邸は、最後の佐倉藩主堀田正倫が、維新後東京から佐倉に移り住んだ邸宅で、1999(平成11)年秋に大規模な補修復元工事を終えている。2006(平成18)年7月5日には、住居部の玄関棟・座敷棟・居間棟・書斎棟・湯殿および土蔵、門番所の7棟が、「旧堀田家住宅」として国の重要文化財(建造物)に指定され、会員たちはその重厚感に見入っていた。 

<社団法人 佐倉厚生会 さくら苑>
日独交流150周年記念菩提樹が2011年10月に植樹された地であり、健やかな菩提樹2本の成長を祈った。

<昼食>
川村記念美術館敷地内、レストラン・ベルヴェデーレ:遅めの食事であったた め、のどを潤した後、前菜盛り合わせ、パスタ、デザート、コーヒーを楽しんだ。

<川村記念美術館、菩提樹植樹地>
千葉県佐倉市郊外にある、広大な庭園の中に立つ美術館.近現代美術のコレクションとしては、日本でも有数の規模を持つ。
DIC(創業時は「川村インキ製造所」)の創業者・川村喜十郎を初めとする川村家3代の収集品を公開するため、平成2年(1990)に開館したもので、館内見学と庭散策に分かれて行動した。広大な庭園に植樹された菩提樹は満身に陽光を受け、健やかに成長していた。

<文化庁登録有形文化財・近藤家住宅(四街道市下志津新田)>
1907(明治40)年から1908(同41)年にかけて建造された母屋・長屋門・土蔵は、当時の大規模農家住宅の特長を良く伝えている。母屋の土間の窓からは、佐倉藩校「成徳書院」の御林の里山風景が広がり、内と外が一体に感じられる。天井には、海松模様の唐紙が星空のように浮かび、伝統的な空間にモダンな雰囲気を醸し出している。九割は古材を用いて、釘を使わない伝統工法で作られている。母屋の「式台玄関」は「砲兵学校」のレンガが再利用され、物不足の困難な時代の面影を伝えている。長屋門の手前には、左にしだれ梅、右に柚子が植栽されている。100年の風雪に耐え、手入れの行き届いた建物は、古民家の暖かさの中に凜とした姿を見せていた。これらの建物は平成16年に文化庁登録有形文化財となった。

見学・説明後、美味しいお茶とお菓子を頂き、長旅の疲れを癒して頂いた。
以上のように、地元民以外には余り馴染みのなかった施設を見学でき、世の中には近くであっても知られていない素晴らしいものがあることを認識させられ、感動の内に無事に旅行を終えることができた。

2014.1.18 新春講演会開催

当協会恒例となった新春講演会は1月18日(土)、千葉市生涯学習センターで開催された。講師にノーベル賞研究家の北尾利夫氏を迎え「知っていそうで知らないノーベル賞の話」と題して講演頂いた。

先生は1958年大阪外国語大学ドイツ語学科を卒業、住友商事(株)に入 社し、1986年にはスウエーデンのストックホルム事務所長を務めた。
着任早々ノーベル賞の偉大さを知り、業務の傍らノーベル賞に纏わる全貌の研究を始めた。爾来ライフワークとして四半世紀以上に亘り続けている。
この分野では日本では唯一の専門家と見られており、2011年に演題と同じ題名の著書を平凡社新書として上梓した。ノーベル賞は1901年の創設以来世界最高の栄誉を誇り、誰でも知っているが、その偉大さについて講演をお願いしました。

講演は午後1時10分、西阪知晃事務局長の司会で始まり、高熱で急きょ欠席した宗宮好和会長に代わり、橋口昭八副会長の挨拶、事務局長の講師紹介の後、 講演が始められた。聴衆は当会会員のほか一般の方も含めて50数名が熱心に聴講した。演台から聴衆に語りかけていた先生も講演中一度もメモも見ることなく 熱心さに応えているようであった。最後には活発な質疑応答が行われた。

講演会後は会場に隣接するレストラン「米細工うのまる」で講師を囲む懇親会を行い、会員等37名が出席。平尾浩三名誉会長と北尾先生のご挨拶に続き、乾杯の後、懇談に入り和やかに進められた。ここでも講師に対する質問が相次ぎノーベル賞談義が続いた。中締めはご夫妻で参加された会員の丸山孝士氏がご挨拶と共に行った。最後は薄暗くなった庭で記念撮影して午後5時に解散した。

◆講演要旨◆

ノーベル賞の創設者アルフレッド・ノーベルは1833年にスウェーデンのストックホルム生まれ、1896年に63歳で亡くなった。丁度明治維新を挟んで前後約30年づつの生涯。彼は19世紀の産業革命を根底から支える役割を果たしたダイナマイトを発明し、亡くなった時には20か国93工場でダイナマイトを製造し莫大な富を築いた。ノーベル賞は彼の遺言により遺産の殆ど全部をつぎ込んで作られたことは知られている。

ノーベル賞の大きな特徴は ①世界で初の国際賞で、国籍に関係なくある分野で最高の業績を挙げた人に授与される事。ノーベルはこれを遺言に明記している。ノーベルの生存中でも世界で多くの国々が戦争をしており、当時では国籍に関係なく授与というのはおよそ考えられない事だった。②次いで賞金がケタ外れに大きい事。第一回目の1901年は約15万クローナ。当時の大学教授の年収の20年分くらいに相当するという。賞金はノーベル財団が資産運用し、その成果を配分するので変動する。元本を取り崩すことはない。実際1945年頃まで運用実績が上がらなかった。2013年は800万クローナで、円換算1億2千万円となり、発足時の実質価値と同じになった。

ノーベルは355件の特許を含め3,300万クローナの遺産を残した。これは当時ヨーロッパ最大、世界でも最大級と思われる。巨額遺産相続と遺贈に就いては遺書に明記されており、遺産総額の5%にも満たない金額が遺産相続人や遺贈分合わせ19名に分配される。(ノーベルは生涯独身で親兄弟は亡くなっていた)次に書かれていたものがノーベル賞の構想。

  1. 賞の5分野:物理学賞、化学賞、生理学・医学賞、文学賞、平和賞。各賞の説明は簡単なもので、自然科学3賞では、全て発明・発見と最も根源的なものが対象。
  2. 各賞の選考機関:物理学賞と化学賞は王立スウェーデン科学アカデミー。 生理学・医学賞はカロリンスカ研究所。文学賞は王立スウェーデンアカデミー。平和賞はノルウエー国会が任命する5人の「委員会」。

遺書の内容は世間に知るところとなり批判が沸き起こった。①遺族関係者の反対=取り分が少なすぎる。②外国人に授与するのは非愛国的。③指定された選考機関=大役過ぎて出来ない。④平和賞の選考=ノルウエーに平和賞を委ねた事に対する非難。(1815年ノルウエーはデンマークからスウェーデンに割譲され、スウエーデン国王を共通の君主として戴く「同君連合」のもとにあった。ノルウエーには独立の動きがあり外交的にデリケートな時期であった)

ノーベル賞の創設は巻き起こる非難により大変難航した。最終的には遺言で遺言執行人として指名されたラグナール・ソールマンが各方面を取り纏め、全体を運営する機関として、また遺産運用をする主体としてノーベル財団の設立が国王によって認可された。これにより準備が捗り、ノーベルの死後まる5年の1901年12月10日に第一回ノーベル賞の授賞式が行われた。

五つの賞が設けられた背景は、いずれもノーベルの重大な関心、あるいは関わりの深い分野で、彼のマルチ才能を駆使してこれらの領域に相当の実績を残している。生理学・医学賞ではノーベルが関心持っていたのは病気を治療する等の狭義の医学ではなく、人体の働きを研究する生理学の方であった。したがって「生理学・医学賞」であって「医学・生理学賞」ではない。北尾先生は、日本のマスコミは間違った名称を使う。報道機関は正確に名称を使ってほしいと、講演会でもクレームをつけていた。また、ノーベルは語学の天才で、英独仏露語を母国語のスウェーデン語と同じくらいに操っていた。また詩や戯曲も書いており、その水準は高く、もしノーベルが火薬技術者にならなかったら、間違いなく詩人、文学者になっていただろうという研究者もいる程という。平和賞については、ノーベルは元来戦争を嫌悪しており平和思想家の英国の詩人シェリーの詩に大きな影響を受けたほか、オーストリアの作家で平和活動をしていたズットナーに共鳴して多額の寄付をしたりしていることが平和賞の背景。

「経済学賞」はノーベルの遺言には書かれていない故、ノーベル賞ではない。
世界で現存する中央銀行で最古のスウェーデン銀行が1968年に創立300年を迎えた。記念行事として、特別基金を設けて資金を出すので経済学賞を設けるようノーベル財団に申し入れがあった。同財団は無論拒絶し、他の機関も反対したが、内部に経済学部門がある科学アカデミーだけは賛成し、最後は妥協して経済学賞が設けられた。ノーベル賞授賞式でスウェーデン国王から受け取るデイプロマ(賞状)には「経済学賞」ではなく「アルフレッド・ノーベル記念王立スウェーデン銀行経済学賞」というもの。賞金プラス諸経費相当額がノーベル財団に寄付される。ノーベル賞から切り離すべきという意見は続いている。

ノーベル賞の選考方法:各賞の選考機関の中にノーベル委員会があり実務を担う。毎年9月に世界中の権威者に翌年の候補者推薦依頼状を出す。その締め切りは翌年の1月31日。これから選考が始まり8月に同委員会が科学アカデミー宛てに理由を付して推薦リストを提出し、アカデミーが最後の審査を行い10月初旬に受賞者が決定する。ノーベル財団は選考には関与することは全くない。推薦状を送付するのは、自然科学3賞の場合スウエーデン科学アカデミー会員、ノーベル委員会委員のほか世界中の一流大学(50~60大学といわれる)、研究所責任者、更に過去のノーベル賞受賞者。但し顔ぶれが固定しないように、また一方に偏しないように、毎年推薦人の顔ぶれを替えている。推薦依頼状は自然科学3賞の場合毎年3,000通くらい発送される。文学賞も同様だが、作家の全創作活動に対して、永年の活動を評価して贈られる。しかし特定の作品について受賞することもある。トーマス・マンは小説「ブッデンブローグ家の人々」で受賞した。

受賞者の国別状況:1901年~2013年の受賞者876名の内、1位の米国が331名で全体の38%で、2位から7位までの英、独、仏、スウェーデン、スイス、露(ソ連)の合計325人を上回り圧倒的多さ。日本は第8位 19人 2.2%。第2次大戦までは欧州勢が約半数。終戦の1945年以降昨年まで米国が302人で全体の48%で圧倒的。理由は、当然戦勝国アメリカがノーベル賞が対象とする科学の基礎研究をする余裕があり、欧州その他の国々は戦後復興が先で、しかも資金的にも困窮していた。さらに1930年代にナチスが興ってくるとユダヤ系の学者が欧州大陸から大量に米国に逃れ、豊富な資金を使って研究し、また研究者を育て、米国の研究のレベルが急速に引き上げられた。1901年から2009年までの受賞者を見ると、物理学賞の受賞者187人のうち47人、25%がユダヤ系。世界人口でユダヤ系人口は0.25% アメリカの人口でユダヤ系は2%。ユダヤ系の人が如何に頭脳が優秀かを示している。過去の自然科学系のノーベル賞受賞者の50%以上は研究の相当期間をノーベル賞受賞者あるいは後に受賞する研究者の下で研究している。如何に優秀な指導者が必要であり、切磋琢磨により研究成果が出てくることを示している。

参考資料はこちら(PDF)>>

2013.12.7 クリスマス・忘年会開催

2013年12月7日(土)に津田沼駅から送迎バスで30分のサッポロビール千葉園で開催された。会員とその家族、千葉大学留学生2人の計35人が参加して宗宮会長の挨拶、金谷専務理事の乾杯でスタート。

ジンギスカン料理は食べ放題、ビールも飲み放題となっており、ドイツ留学生の Kay S. Pasalk 君と、Anna Ogami さんも大いに会員諸氏と交流して、19:00 過ぎに散開した。

なお、会に先立ち、希望者に500円でビール工場見学会が催されて、ビールの製造工程の説明と試飲会が行われた。

2013.11.20 ~ 12.3 当協会後援の「ならしの日独市民交流100年 ~習志野ドイツ俘虜収容所開設百周年 ボトルシップが結ぶ絆~」が12月3日まで開催。会場は、習志野市大久保4-2-1にある「あったか大久保ひろば」。

第一次世界大戦(1914 - 1918)で日本はドイツで交戦し、中国・青島(チンタオ)から多数のドイツ軍人を捕虜として日本に移送した。このうち、約1000人が新しく設けられた「習志野俘虜収容所」で終戦まで過ごした。来年の2014年は、この収容所開設から1世紀になる。「あったか大久保ひろば」(一般社団法人・岡田光正代表理事)がこれを先取りする形でこのイベントを開催した。

イベントのメインである「記念講演」が23日午後2時から行われた。在日ドイツ連邦共和国大使館から広報文化部長、クラウス・アウアー公使(Dr. Claus Auer) が来賓として招かれ、来場者や隣接の東邦高校生徒らがドイツ国旗を振る中、にこやかに手を振り入場した。

アウアー氏は、講演に先立つ来賓の挨拶で150年以上続いている日独交流 の意義を強調したあと、会場の一角に当協会が展示・披露している写真集を取り上げて「捕虜たちが収容されているにもかかわらずスポーツや音楽に興じており、寛容な待遇を受けていたことがわかります。捕虜たちと地元・習志野の人たちとの交流もありました。100年近い時を経た今日、習志野で亡くなったドイツ軍人の慰霊祭が行われていると聞き、大変嬉しく思います」と、感謝の言葉を述べた。

また、このイベントを主催者から後援を要請された千葉県日独協会を代表して宗宮好和会長は、習志野市にあった俘虜収容所について「(当時の)日本とドイツとの交流を考えるうえで大変意義深い遺産である。協会は『ボトルシップ研究会』を立ち上げて、収容所と軍人たちがわが国に残した文化の足跡を調べています。皆さまのご協力をお願いします」と呼びかけた。

この後、記念講演に入り、山岸良二氏(習志野文化財審議会会長、東邦大学付属東邦中高校教諭)が「日露戦争から第一世界大戦までの日本と習志野」のテーマでマイクをにぎった。習志野市教育委員会発行の「習志野市史研究 3」から70%の情報を得たという「習志野捕虜収容所物語~収容所の生活と交流」の講演もあった。

最後は、当協会の橋口昭八副会長が登壇。当協会が永年続けている「ドイツ軍人追悼慰霊祭」の経緯や意義、日独修好条約締結150周年(2011年)を記念して在日ドイツ連邦共和国大使館から贈られた菩提樹(リンデンバウム)30本を千葉県内各地に植樹し、両国の友好・親善を誓ったことなどを話した。

橋口副会長は「日独交流の歴史―ドイツに学べ」の項で、明治初期にロンドン、パリに続いてベルリンを訪れた岩倉使節団やドイツでアジア人の医学博士第一号となった佐藤進、そして佐倉順天堂と日本近代医学などを詳しく語ってみせた。さらに、ドイツ滞在24年の経験と生活を顧みながら「戦後日本が復興する中で、製鉄や鉄鋼技術などドイツから学んだことがいかに多かったか」と熱く語り、注目を集めた。

当協会は、この会場で「千葉県と日独の交流」「習志野俘虜収容所を調査する『ボトルシップ研究会』の成果」などを54枚の写真と、23枚のパネルで展示している。記念講演当日だけで100人以上が熱心に展示写真やパネルに見入っていた。岡田代表理事によると、20日の開場以来、ざっと1000人を超える来場者があったのではないか、という。

このイベントで当協会の写真展示を見た会場の近くに住む2人の方から、第一次世界大戦で青島攻防をめぐる日独両軍の様相を窺わせる写真数点と、東京衛戍総督で青島守備軍司令を務めた神尾光臣大将が残した墨書、青島の地図(写真)などが寄せられ、新たに展示された。

この中には、日本軍を大いに悩ましたというドイツのイチルス砲台、ビスマルク砲台の写真と記事が注目を引いている。因みに、「青島攻撃独立第18師団戦死者408、負傷者1521」の記述もあり、日本軍の犠牲も大きかったと思われる。

2013.11.10 第19回ドイツ軍人慰霊祭開催

11月10日(日)船橋市営習志野霊園において恒例のドイツ軍人追悼慰霊祭が執り行われた。今回は1995年慰霊碑建立40周年記念の式典より数えて第19回目となる。心配された空模様も穏やかな曇り空の内に、粛々と滞りなく終えることができた。当会は宗宮会長以下40余名の参加、ドイツ大使館より新任の武官カーステン・ブッシュ空軍大佐、他にも習志野自衛隊、船橋市、習志野市および地域関係者臨席のもと、習志野第九を歌う会有志による両国国歌斉唱に始まり、宗宮会長、ブッシュ武官の慰霊の辞、船橋、習志野両市長慰霊の辞の代読、30柱の御霊紹介、軍人葬送歌合唱、武官による花輪奉呈に続き全員の献花、一同拝礼をもって閉会、続いて慰霊碑に向かい、ドイツ柏の木を背景に集合写真の撮影。武官はこの日独合同の追悼慰霊に歓喜し、そこに和解の道を見たと述べられた。また、一人の夫人は感動の面持ちで「何という和やかさ、言葉にならない」と言われていた。なお、慰霊祭に続き自衛隊駐屯地の中に会場を移し、直会を開催、参加30数名。宗宮会長の主催者挨拶、来賓挨拶はブッシュ武官、第一空挺団斉藤広報班長、磯船橋市習志野自治会長と続いた。初参加の方も多かったが、和気藹々、弁当と缶ビールで談笑、武官も日本の弁当ファンと見受けられた。慰霊際11時~11時50分、直会12時過ぎから約1時間、西阪事務局長の司会進行で無事終了。幸い今年も雨は降らず天気に恵まれた。

2013.10.11〜10.13「ありがとう船橋オクトーバーフェスト2013」が盛大に開催

世界的に名高いミュンヘン恒例のイベントに倣った「ありがとう 船橋オクトーバーフェスト2013」が10月11日から13日まで3日間、JR船橋駅北口広場で開かれた。船橋北口商和会が中心となり「地域の活性化と商店街の売り上げ増進」をはっきり謳った、ユニークなイベントだ。

「ドイツの音楽と味を楽しんでもらう」と、「アルプス音楽団」のメンバー5,6人が特設ステージにフル出場し、トランペット、アコーディオン、アルプスフォルン、さらにカウベルを駆使しながら、ヨーデルやドイツ民謡で会場を盛り上げた。時には、来場者を舞台に招きあげて独特の民族ダンスの輪をえがくなどビルの谷間から青空に絶え間ないメロディー と歌声が舞い上がっていた

会場中央に約300席のベンチとテーブルを、8軒ほどの食店ブース(出店料10万円・1店)が取り囲む。お客は1セット5枚(1枚、800円)のチケットでビール、ソーセージ、アイスクリームなどを買う仕掛け。

2日目の土曜日午後に行われたオープニングセレモニーには、地元の松戸徹・船橋市長はじめ、在日ドイツ連邦共和国大使館のアンスガー・ジッカート(Ansger Sickert)氏らが挨拶。要請によりこのイベントを後援した当協会の宗宮好和会長もヒナ壇に顔を見せた。

このイベントは終始、快晴に恵まれたうえ、土、日曜も重なり夕方は若者や子供連れのファミリーが満席状態、3日間の期間中約4000人で賑わいだった。

来賓として挨拶した在日ドイツ大使館のジッカート氏は当協会の日独交流写真展示会場に顔を見せて千葉県と日独両国の交流や日頃の活動を示す写真、パネルを興味深く見学した。ジッカート氏は宗宮会長、橋口副会長はじめ、オペラ歌手としてベルリン滞在が長い野村陽子理事らとにこやかに交歓していた。

当協会の展示ブースは一般の来場者も多く、新たに2人の会員が加わった。
このイベントは今年が初めてだが、来年からは恒例化し、ドイツのハンブルクやリューベックなどと姉妹都市提携を目指し、日独両国の友好・親善を進めたいと言っている。

2013.08.24「ビール祭り」を盛大に開催

今年のビール祭りは猛暑の続く8月24日(土)東京・丸の内のビアレストラン「カイザーホフ」で28名の会員が参加して開催された。

暑さの中、汗を流し参加された会員を迎えたのはミュンヘンのホフブロイハウスを思い起こさせるフレスコの天井画のあるシックでドイツの雰囲気を漂わす会場であった。「冷たいビールを早く飲みたい」との気持ちが一気に高まる中、宗宮好和会長のご挨拶、続いて御宿の『五倫文庫』理事長、伊藤良昌氏(当会会員)による乾杯の音頭で 「ビール祭り」がスタート。(『五倫文庫』には、我が国に学制が施行された明治5年(1872)以来の初等教育(小学校)、及び戦後の中学教育も含めた教科書のほか、明治以前の寺子屋の資料や、世界約70ヵ国の初等教育用教科書等32,000冊ほどが収蔵されており、一般公開されている。また、ドイツの子供たちに親しまれているハインリッヒ・ホフマン著の絵本「シュトルッベルペーター(Der Struwwelpeter)」の日本語版-「ぼうぼうあたま」-伊藤理事長の父君庸二氏による翻訳-が展示されている。)

ところで、本年の「ビール祭り」では、「カイザーホフ」がミュンヘンのホフブロイハウスから取り寄せたドゥンケルビア、ヴァイスビアなどのドイツビールが用意され、ワインやドイツ料理とともに本場ドイツの風を感じながら会話に花を咲かせる事が出来た。

佳境に入ったところで長年デュッセルドルフに滞在しておられた平井保彦会員が、本年6月同地での「日本デー」に夫妻で参加、千葉県ブースを手伝って来られとのことで、「日本デー」の模様をビデオで紹介された。画面には、デュッセルドルフ市長のスピーチなどセレモニーの様子や千葉県ブースでのパフォーマンスなど臨場感あふれる映像が多く映っており、祭りはさらに盛り上がった。昨年に比べ参加者は少なかったものの、会員同士で久しぶりの再会を確かめる機会になったこともあり、猛暑を吹き飛ばす元気をもらったのではないかと感じた。  

最後は橋口昭八副会長による一本締めで祭りを終了した。

2013.06.23. 「野村陽子先生とお弟子さんを囲む音楽会」を盛大に開催

当協会通信 Die Eiche No.82 (2013.06.01発行)やホームページでお知らせしていた音楽会が6月23日午後4時から、船橋市の中央公民館で開かれた。
梅雨の合間を縫うような快晴の中、当協会会員はじめ友人・知人など35人が会場の同公民館視聴覚室へ詰めかけた。演奏家は、1975年から1988年まで13年間、ベルリン・ドイツ・オペラ劇場の専属歌手を続けて欧州などで大活躍した野村陽子先生(当協会理事)のお弟子さん。横田綾子さん、吉田和夏さん、西谷衣代さん、そして伴奏の田中健(たけし)さんの4人。

宗宮好和会長が開会の挨拶を行い、続いて野村先生がお弟子さんを順次紹介して演奏会が始まった。

横田 綾子さん=中央大学心理学科卒。東京音学大卒、同大学院修了。

吉田 和夏さん=東京音楽大学卒。同大学院修了。新国立劇場研究生。近く、文化庁派遣で、イギリスへ留学する。

西谷 衣代さん=東京芸術大学卒、同大学院修了。大学在学中、新人の登竜門として知られる第26回ソレイユ音楽コンクール(2008年)第8回ルーマニア国際音楽コンクール声楽部門3位入賞(1,2位該当者なし)。二期会マスタークラス。

田中 健さん=東京音楽大ピアノ科卒。同大学院修了。現在、同大学声楽科伴奏助手。

横田さん、吉田さん、西谷さんの3人はソプラノ歌手のトッププロを目指して野村先生の下で学んでいるが、近くそれぞれ別の途を歩むことになっている。このため、お別れの記念リサイタル(7月12日、東京・雑司ヶ谷音楽堂で18:30から。全席自由 \2,000)に向けて日々、研鑽に励んでいた。野村先生は「ドイツ・リートやオペラでも言葉の意味をしっかり理解し発音をマスターしないと、詩や音楽の真髄に迫れない」が持論。その野村先生に、当協会がドイツ・リートにおけるドイツ語のお手本をお願いしたのが発端で、お弟子さんたちの“本番さながらのお披露目”の形で音楽会が実現した。

演奏会は、歌手が自らそれぞれのプログラムをタイトル、内容(物語)、聴いてほしいところなどを丁寧に説明して始まった(掲載は、演奏順)。

横田 綾子さん
ピアノは田中 健さん

<前半>
R・シューマン 歌曲集「ミルテの花」より「献呈」
山田 耕筰  歌曲集「風に寄せてうたへる春の歌」より「君がため織る綾錦」

<後半>
モーツアルト オペラ「後宮からの逃走」より「優しくしたり、ご機嫌をとったり」

吉田 和夏さん

<前半>
R・シュトラウス 「君は僕の心の王冠」

<後半>
ヘンデル オペラ「ジュリアス・シーザー」より「難破した船が嵐から」

西谷 衣代さん

<前半>
R・シュトラウス 「何も!」
コルンゴルド オペラ「死の都」より「マリエッタの唄」

<後半>
C・グノー オペラ「ファウスト」より「宝石の歌」

会場の音響や防音、アップライトピアノなどトッププロを目指す演奏家たちには演奏環境が不十分ではないか、という当協会の不安や懸念を吹き飛ばすかのような歌手たちの熱唱に、聴衆は割れんばかりの拍手で応えた。会場がそれほど広くなかったこともあり、演奏家と聴衆が一体となった盛り上がりをみせた。とくに、歌手たちの若く、豊かな声量、高い将来性をうかがわせる音楽性に会場からため息さえもれた。

演奏の締めくくりは、アンコールに応えて懐かしい唱歌「夏は来ぬ」(佐佐木信綱作詞、小山作之助作曲)。最初は、田中健さんの素晴らしいピアノに合わせて横田、吉田、西谷さんが歌い、2番は同じ歌詞で会場と大きな声で唱和して、1時間余の熱演を終え、会場の拍手とどよめきは暫く止まなかった。

このあと、希望者と演奏家を含む26人が近くのレストランで懇親会を開いた。音楽会の興奮が冷めやらぬ中、3人のソプラノ歌手やピアノの田中さん、野村先生はテーブルのあちこちから引っ張りだこ。参加者はビール、ワインやイタリア料理に舌鼓をうちながら、ドイツやイタリアオペラのアリアからリートなどの話題で盛り上がり、談笑が絶えなかった。最後は全員で記念撮影をして2時間近いパーティを終えた。

2013.06.15. 「第15回ボトルシップ研究会」開催

2013.05.18. 当協会年次総会

14時から、船橋市西船橋のフローラ西船で年次総会が開催された。宗宮好和会長、平尾浩三名誉会長以下出席46名、委任状64名。小野寺輝孝理事の開会の辞、日独両国国歌斉唱に続き会長挨拶があり、國枝誠昭理事が議長に選出され、6議案すべてが審議、承認された。定刻14時50分、総会の議事を終了した。

総会冒頭の挨拶で、宗宮会長は懸案の当会ホームページ(HP)が1月23日に開設された事、若い人たちへのアピール、習志野捕虜収容所関係の調査等が目的であり、後者についてはドイツ側より早速2件のアクセスがあったこと、即ちいずれも捕虜の孫に当たる方からで、1件は収容所の研究に関しHPのリンクを願うもの、もう1件は祖父の足跡を尋ねて5月3日に急の訪問を受けたことを報告された。

総会記念講演の講師は、当協会理事、渡部武弘千葉大学名誉教授(演題など詳細は後述)。高度な理論と産業への応用の現状を分かり易く解説され、一同一様に啓発を受けた。懇親会は16時10分から宗宮会長の挨拶、平尾名誉会長の乾杯の音頭で開会、最近入会された会員の紹介も交え和気藹々、最後に一同記念写真に納まって、17時30分に終了した。

<記念講演>

講師は、千葉大学名誉教授・千葉県日独協会理事の渡部武弘氏で、タイトルは「レーザ光線って凄い!」

講演会には会員とその友人など46人が参加した。講演ではまず、産業界の現状をわかりやすくするため、渡部氏が用意した動画により切断技術と溶接技術が紹介された。レーザ切断では、プログラムを変えることにより金型を用いずに任意の形状を超高速で切断する事が可能となっており、板金業界に広く普及している。レーザ溶接では、長焦点レンズを用いることにより1m近く離れたところから高速の三次元リモート溶接が可能となっている。ロボットの先端を三次元的に振り回し、あらゆる方向から溶接し、聴衆を感動させた.この技術は、自動車の生産技術として不可欠のもので、日本とドイツで最先端を歩んでいる。

次に、身の回りのレーザ応用技術として半導体レーザ(LD)を用いた各種応用機器について紹介された。まず、LDの基本構造が説明され、小型で他の装置に組み込み易い、電力からの変換効率が50%以上と非常に高い(通常のレーザ加工機では1〜20%)、大量生産に適し、半導体材料の選択により様々な波長が得られる等の特長を有している。その応用技術にCDとDVDが有り、DVDはCDと比較し、情報を書き込むビットの長さと間隔が小さく、多くの情報を書き込むことが出来る。更に、CDは1枚のディスクで構成されているが、DVDは上下2枚で構成されており、情報量は多くなる.多くの情報を含んだ小さいビットを読み込むためにレーザ光のスポット径も小さくする必要がある。波長が短いほどスポット径は小さくなり、CDに用いるレーザ光の波長は780nm(10ー9m)、DVDでは650nm、ブルーレイでは408nmとなっている。その駆動状態が動画で示された.鮮明で長期保存が可能な出力機としてレーザプリンターが広く普及している。その構造と駆動方法も動画で示された.その他、LDを組み込んだレーザポインター、スーパーマーケットのレジで見られるバーコードリーダ、光通信等についても説明された。

続いて、同氏のレーザ加工の研究経緯と研究結果が紹介された。1978年6月にパルスYAGレーザ加工装置が導入され、当時の日本では最高水準の仕様を有した装置で、加工メカニズム解明のため基礎研究が開始された。まず、3W(=3J/s)の豆電球とレーザ光線の違いについて説明が有り、豆電球ではほんのり暖かい程度である。しかし、レーザ光線は、3Jのエネルギーを3ms(10−3s)に凝縮し、レンズにより直径20μm(10−6m)に集光すると焦点位置でのパワー密度は約100MW/cm2(M:メガ=106)となり、全ての材料を瞬時に蒸発させる能力を有する。この様に僅か3Jのエネルギーで超高パワー密度が得られ、強力な工具となるところがレーザ光線の凄いところである。ちなみに1cal=4.2Jであり、3Jがいかに小さなエネルギーであることが分かる。

次いで、試作したPCによる5軸同時制御のマイクロ加工装置を用いた複雑三次元形状の加工例が紹介された.直径400μmの8枚羽根の風車、直径70μmの雄ねじ、直径350μmの傘歯車では、光エネルギーの大きい紫外レーザ光が用いられ高分子材料であるポリイミドに加工された。直径500μmのバネと医療用ステントでは、ステンレス鋼管にレーザ加工された後、電解エッチングにより表面が滑らかにされると同時にエッチング時間を変えることによりその強度を任意に変化させることが可能となっている。

1.5mm立方のギヤボックスでは、厚さ0.1mmのステンレス鋼板に展開図に従って切断され、その後曲げ加工が行われ、完成している。この中に2個の平歯車を設置し、モータ駆動により減速装置を作製した。

三番目に、熱定数が大きく異なり、他の方法では困難な鋼板とアルミニウム合金の溶接を独自のレーザパルス波形により挑戦した。すなわち、連続レーザ光では穏やかな加熱となるが深溶け込みは困難になる。それに対し、パルスレーザ光では深溶け込みは可能であるが急加熱・急冷却により空洞やクラックなどの欠陥が発生し易い。これら二つのタイプのレーザ光を組み合わせ、それぞれの良いとこ取りを行うことにより困難な溶接に成功した。これは自動車の軽量化に不可欠な技術である。同様に、実用金属中、最も軽量で携帯電話、ノートパソコン、デジカメ等モバイル機器に使用されているマグネシウム合金は、沸点が低く溶接し難い材料である。これも上記の方式により高品位溶接を達成している。この結果は世界トップクラスの成果となっている。

四番目は大型船舶や橋梁に必要とされる厚板鋼板の切断で、切断後に後加工無しに次の工程に入れる高品位切断が求められている.流体解析により適切なノズルを開発し、厚さ36mmの鋼板を、600mm/minの速度で高品位切断を可能とした。切断条件も可成り広範囲で達成できている。

最後に、同氏のランニング経緯、日本における過去、現状、将来を郷愁と哀愁、希望として披瀝された。

以上、約75分の講演であり、専門外の人にも分かり易いようにする努力は伺えたが理解困難な部分が多かったようである。それでも、レーザ光線とレーザ加工についての理解は、多少、深まったと思われる。講演後の懇親会では、最後のランニングと同氏の考え方に話題が集中しており、楽しい雰囲気の中に終了した。

2013.05.03. ホームページ(HP)開設で、早速実る日独交流!

第一次世界大戦で日本軍の捕虜になり、習志野俘虜収容所に祖父がいたというドイツ人が5月初め、祖父の足跡を訪ねて来日した。当協会は、この俘虜収容所や収容されていたドイツ人たちが日本に残した文化遺産、交流を追跡する「ボトルシップ研究会」を2年前から続けている。このため、当協会はこのドイツ人を歓迎した。

このドイツ人はニッケル(Dr.Jörg Torsten Nickel)氏。ニッケル氏の習志野訪問のいきさつは、次の通りである。

当協会の宗宮好和会長がザールブリュッケンのハンス=ヨアヒム・シュミット(Hans-JoachimSchmidt)氏と、当協会のHP開設をめぐるメールを交換していて知らされた。4月25日のことだった。シュミット氏は第一次大戦の中国・青島を舞台にした日独戦争と日本におけるドイツ人捕虜の歴史を研究し、彼のHPで精力的に情報の収集と発信をしている人。宗宮会長は3年前、シュミット氏の自宅を訪ねたことがある旧知の仲。早速、シュミット氏を通じてニッケル氏へ当協会の歓迎の意向を伝え、日程が確定したのは来日2日前の5月1日という際どさだった。

ニッケル氏(58)は黒のハーフコート、白黒縞模様のネクタイ姿で現れた。ドイツ人らしい大柄の紳士である。連休最中の5月3日午前10時、快晴の京成実籾(みもみ)駅。第一次大戦で習志野俘虜収容所にいた祖父の足跡を訪ねて来日した。出迎えの宗宮好和会長、橋口昭八副会長と挨拶を交わして、田中正延理事の車で習志野市の「オーケストラの碑」へ向かった。

ニッケル氏は世界的に有名な化学会社BASFの技術者。ハイデルベルクに近いオーデンヴァルト・シェーンブルンに住む。祖父はクレープス(Wilhelm Albin Otto Krebs)さんで、この人は1884(明治17)年6月生まれ,チューリンゲンで育った。1914年8月動員され、膠州湾海軍砲兵隊砲兵曹長。福岡収容所を経て1915年9月15日習志野収容所へ。19年12月に解放されて帰国。1973年に89歳で亡くなった。

捕虜たちのオーケストラ活動を記念する碑文前では、習志野市の島田行信副市長、同市教委社会教育課の上野久課長、白鳥章係長がニッケル氏を迎えた。同氏はきれいに清掃され鮮やかな新緑を映す碑文に目を凝らしながら、宗宮会長の説明に深く頷いていた。島田副市長がニッケル氏に「ようこそ、習志野市へ」と歓迎の言葉をかけ、同市のラムサール条約締結20周年記念の風呂敷や観光絵はがきセットを贈った。

この碑がある公園付近は収容所の面影はないが、厨房の一部がわずかに残る民家の話しに関心を寄せたニッケル氏は「祖父はドイツでは鉄道員をしていましたが、ここではコックでした」と感慨深そうにつぶやいていた。 

続いて、スペイン風邪などで死去した収容所のドイツ兵30人が眠る船橋市営霊園へ。墓石を掃き清めて花を添えていた須古正恒常任理事がニッケル氏らを迎えた。同氏は会長、副会長が毎年11月のドイツ・国民哀悼の日に行う慰霊祭の説明に聞き入った。

JR津田沼駅前の中華料理店で行われた歓迎会は小野浩理事が設営に動き、平尾浩三名誉会長はじめ理事有志、捕虜たちの調査を続ける「ボトルシップ研究会」のメンバー計15人が参加。ニッケル氏は「本日のご招待に厚くお礼を申し上げます」と、次のように挨拶した。

「祖父が日本の俘虜収容所にいたことは存じておりました。私は自分の仕事で千葉県市原市にいたことがありますが、祖父が習志野にいたことを最近ネットで知り、とても驚きました」「祖父は戦争に召集される前、12年間中国で働いていました。中国、および日本での滞在は17年間におよびました」「(帰国後)祖父は日本の体験を話していましたが、肯定的でした」「オーケストラの碑や兵士たちの墓所に行き、心を揺さぶられる感慨を覚えました」(通訳は堀江弘隆理事)

平尾名誉会長が「祖父は日本のいいお話しをされていた、とニッケルさんはおっしゃいましたが、ドイツ兵も(日本人に)とってもいい印象を残して帰られました。日本は彼らから多くのものを学びました。ドイツ兵たちの優れた文化性と品位ある人間性のお蔭であると思っています。私たちはお祖父さんたちにありがとう、とニッケルさんにお伝えしたいのです」と語りかけた。
ニッケル氏は感激した表情で「ありがとうございます。祖父たちが残した友情を認識しました。私は若い世代として、そのような(日独交友の)活動を継続していくことにします」と、述べていた。

ニッケル氏は日本のほか、中国、韓国、マレーシア、シンガポールで約20年間働いてきたという。これも何か祖父との因縁か。2時間ほど、慣れた箸使いで料理とビール、会員たちとの談笑を楽しんだ。

同氏は福岡、京都を訪ねて帰国後、宗宮会長に次のようなお礼のメールを寄せた。

「捕虜から解放後、祖父が帰国するまでにすべての職が残念なことにヨーロッパ戦線からの帰国者によって失われていました。帝国約束の再雇用も保障されず、ワイマール共和国はインフレなどの不安材料を抱え、一時失業状態に・・」。祖父の苦難の時代を綴り、2人の娘(妹がニッケル氏の母)に恵まれたこと、1949年の退職時は地元ハノーファーの貨物駅の駅長だったことに触れ「私にとって祖父はいつもとてもいい人でした。しかし、戦争のことはあまり話しませんでした」と結んでいた。


晩年のクレープス氏

2013.04.20. 「第14回ボトルシップ研究会」開催