船橋市習志野霊園の墓碑銘に刻まれたドイツ軍人戦没者名
船橋市習志野霊園の墓碑銘に刻まれたドイツ軍人戦没者30名のお名前と分かっている情報は次の通りです。
1)
Agethen(アゲーテン),Heinrich(?-1919):海軍東アジア分遣隊第1中隊・上等歩兵。1919年2月1日、スペイン風邪により習志野で死亡した。ライン河畔のエンガース(Engers)出身。(1:東京→習志野)
2)
Bauch(バオホ),Johann(?-1919):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。1919年2月11日、スペイン風邪により習志野で死亡。中部フランケンのアイヒャ(Aicha)出身。(914:福岡→習志野)
3)
Becker(ベッカー),Hermann(?-1919):海軍砲兵中隊・2等焚火兵。1919年1月26日、スペイン風邪により習志野で死亡した。ズィーデンボレンティン(Siedenbollentin)出身。(34:東京→習志野)
4)
Berndt(ベルント),Alfons(?-1919):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。1916年10月18日、グラースマッハー(Glasmacher)等68名とともに、福岡から大分へ収容所換えになった。1919年1月31日、スペイン風邪により習志野で死亡した。ブレスラウ(Breslau)出身。(876:福岡→大分→習志野)
5)
Böcher(ベッヒャー),Karl(?-1919):第3海兵大隊第4中隊・上等歩兵。熊本時代(長国寺に収容)の1915年3月15日、少し以前から高熱で入院していたが、この日グラーゼル(Glaser)及びシュトラウス(Paul Strauss)とともに腸チフスと診断された。1918年8月6日久留米から習志野へ収容所換えになった。1919年2月7日、スペイン風邪により習志野で死亡した。ギーゼン郡のフィリンゲン(Fillingen)出身。(3201:熊本→久留米→習志野)
6)
Böhmer (ベーマー),Wilhelm(?-1919):海軍東アジア分遣隊第3中隊・後備2等歩兵。クラウス(Kraus)と喧嘩騒動を起こした。1919年2月2日、スペイン風邪により習志野で死亡。ヴェストファーレンのアンネン(Annen)出身。(28:東京→習志野)
7)
Dörr(デル),Christian(1893-1919):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。1893年4月4日鉱夫ペーター・デルとその妻マルガレーテの間に、10人兄弟の9番目の子として生まれた。1914年8月上記中隊に入隊した。1919年2月7日、スペイン風邪により習志野で死亡。オットヴァイラー(Ottweile)郡のホスターホーフ(Hosterhof)出身。(50:東京→習志野)
8)
Focken(フォッケン),Charly(?-1919):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1919年1月29日、スペイン風邪により習志野で死亡した。ヴィルヘルムスハーフェン(Wilhelmshaven)出身。(4351:「熊本→」大分→習志野)
9)
Glasmacher(グラースマッハー),Hans(?-1919):第3海兵大隊第4中隊・2等砲兵。1916年10月18日、ノッペナイ(Noppeney)等68名とともに、福岡から大分に移送された。1919年2月4日、スペイン風邪により習志野で死亡した。グレーフェンブロイヒ(Grevenbroich)県のカペレン(Capellen)出身。(1059:福岡→大分→習志野)
10)
Hagemann(ハーゲマン),Harald(?-1919):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。1915年12月24日と1916年3月7日付けの、ハンブルクの恋人に宛てた2通の手紙が知られている。1919年1月2日スペイン風邪により習志野で死亡した。キール(Kiel)出身。(1105:福岡→習志野)
11)
Johannes(ヨハネス),Hugo(?-1919):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等砲兵。1918年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。1919年1月31日、スペイン風邪により習志野で死亡した。テューリンゲンのシュマルカルデン(Schmalkalden)出身。(1164:福岡→習志野)
12)
Körner(ケルナー),Peter(1880-1919):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等焚火兵。1880年5月2日、日雇い労働者の子として生まれた。1914年8月上記中隊に入隊した。1916年10月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野時代の1916年12月20日、大分のマイレンダー(Mailänder)に宛てて葉書を出した。葉書は、日本髪の女性が、茶托に載せた蓋付きの茶碗を持っている図柄の写真の絵葉書である。裏面の文面は次の通り。「最良のクリスマスと良き新年を」【マイレンダーの項参照】。習志野時代の1919年1月8日、9日に収容所で演じられた、ハウスライターとライマン作の3幕の茶番劇『電話の秘密』に年金生活者役で出演した。その月の1月31日習志野でスペイン風邪で死亡。ザールブリュッケン(Saarbrücken)出身。(1187:福岡→習志野)
13)
Krämer(クレーマー),Hermann(?-1919):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。1916年10月18日福岡から大分へ収容所換えになった。1919年2月11日スペイン風邪により習志野で死亡した。ブレーメン近郊のシュマーレンベック(Schmalenbeck)出身。(1194:福岡→大分→習志野)
14)
Kraus(クラウス),Simon(?-1919):海軍砲兵中隊・後備2等焚火兵。ヴィルヘルム・ベーマー(Böhmer)と喧嘩事件を起こした。1919年1月26日習志野で死亡。ハンブルク(Hamburg)出身。(139:東京→習志野)
15)
Lehmann(レーマン),Hugo K.A.(?-1919):海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備砲兵伍長。[商船船長]。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。ドイツ北西部の方言低地ドイツ語を話す商船船長のツィンマーマン(Julius Zimmermann)と親しかったが、レーマンは時にドイツ語とフランス語をごちゃ混ぜにして話した【『ポツダムから青島へ』208頁】。1919年7月8日習志野で死亡。エルザスのゼーハウゼン(Seehausen)出身。(1282:福岡→習志野)
16)
Linel(リーネル),Leo(?-1919):海軍砲兵中隊・2等焚火兵。1919年2月4日スペイン風邪により習志野で死亡。メッツ(Metz)出身。(152:東京→習志野)
17)
Mehlis(メーリス),Peter(1893-1919):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。1919年1月31日習志野で死亡。アンデルナッハ(Andernach)近郊のプライト(Plaidt)出身。(157:東京→習志野)
18)
Noppeney(ノッペナイ),Philipp(?-1919):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。1916年10月18日、ジーベル(Siebel)等68名とともに福岡から大分に移送された。1919年1月28日、スペイン風邪により習志野で死亡。アーヘン(Aachen)出身。(1369:福岡→大分→習志野)
19)
Nowak(ノーヴァク),Karl(?-1917):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。1917年2月10日習志野で死亡。ファルケンベルク近郊のプシネ(Puschine)出身。(168:東京→習志野)
20)
Rosenberger(ローゼンベルガー),Heinz (?-1919):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・予備上等兵。1919年1月31日スペイン風邪により習志野で死亡。ボヘミアのルムブルク(Rumburg)出身。(1776:静岡→習志野)
21)
Schulze(シュルツェ),Gustav(?-1918):海軍膠州砲兵隊第1中隊・砲兵伍長。1916年10月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。ノイマイアー(Neumaier)の日記によると、1912年、東アジアへの出発の際、ククスハーフェン駅に花嫁が見送りに来ていて、白いバラを手渡して涙を流したとのことである。1916年10月22日、他の68名とともに福岡から習志野に移送された。1918年12月5日、結核性腹膜炎により習志野で死亡した。ベルリン(Berlin)出身。(1465:福岡→習志野)
22)
Schütze(シュッツェ),Julius(?-1919):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。1919年1月31日、スペイン風邪により習志野で死亡した。タンガーミュンデ(Tangermünde)出身。(1513:福岡→習志野)
23)
Seng(ゼング),Karl(?-1919):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。1916年10月18日福岡から大分へ収容所換えになった。1919年2月6日、スペイン風邪により習志野で死亡。フィリンゲン(Villingen)郡のノイキルヒ(Neukirch)出身。(1486:福岡→大分→習志野)
24)
Siebel(ジーベル),Robert(?-1919):海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等砲兵。1916年10月18日、ベルント(Berndt)等68名とともに福岡から大分へ収容所換えになった。1919年2月2日、スペイン風邪により習志野で死亡した。ジーゲン郡のゴーゼンバッハ(Gosenbach)出身。(1482:福岡→大分→習志野)
25)
Spöler(シュペーラー),Heinrich(1894-1919):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。大分時代の1918年5月7日、板東のラングハイム(Langheim)から葉書を受けた。【マイレンダー(Mailänder)の項参照】。1919年1月29日、スペイン風邪により習志野で死亡。ヴェストファーレンのボルケン(Borken)出身。(4445:「熊本→」大分→習志野)
26)
Stauch(シュタオホ),Karl(?-1919):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。1919年1月29日、スペイン風邪により習志野で死亡。テューリンゲンのルーラ(Ruhla)出身。(228:東京→習志野)
27)
Stertze(シュテルツェ),Friedrich(?-1916):海軍砲兵中隊・2等水兵。1916年6月4日、肺結核兼結核性脳膜炎により習志野で死亡し、陸軍墓地に埋葬された。ホーエンエルクスレーベン(Hoenerxleben)出身。(255:東京→習志野)
28)
Suran(ズーラン),Franz(?-1917):海軍砲兵中隊・後備2等兵曹。東京時代の1914年12月、不服従の行動で重営倉3日に処せられた。更に1915年6月29日には、収容所内の酒保が閉店になってから酒の販売を強請し、空き瓶で酒保監督の軍曹を殴ろうとして重営倉10日の処罰を受けた【『日独戦争ノ際俘虜情報局設置並独國俘虜関係雑纂』21冊の内の第8巻より】。習志野時代の1916年7月14日、「収容所医師ニ対シ不軍紀ノ言動ヲナシタル科」で重営倉20日、また入院中の10月21日には「脱院シ逃走ヲ企タル證跡顕著ナル科」で重営倉30日に処せられた。1917年8月29日習志野で死亡。ハンブルク近郊のヴィルヘルムスブルク(Wilhelmsburg)出身。(247:東京→習志野)
29)
Teller(テラー),Herbert(?-1919):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。1919年2月3日(4日?)、スペイン風邪により習志野で死亡した。シュレージエンのオッペルン(Oppeln)出身。(1790:静岡→習志野)
30)
Thönes(テーネス),Fritz(?-1919):第3海兵大隊第1中隊・予備副曹長。1919年2月2日、スペイン風邪により習志野で死亡した。デュッセルドルフ(Düsseldorf)出身。(4447:「熊本→」大分→習志野)
参考:
Mailänder(マイレンダー),Andreas(1892-1980):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。〔イルチス砲台〕。ザールブリュッケン近郊クッツホーフ在住のハンス=ヨアヒム・シュミット(Hans-Joachim Schmidt)氏はインターネット上で、マイレンダーに関する興味深い大量の情報を記している。1985年末、夫妻が前年に購入した家の建替えを行うために、家の整理、片付けをしていたところ、屋根裏部屋から数多くの古い葉書、書類、パンフレット、ポスター、写真の入った長持を見つけた。それらは以前の所有者マイレンダーの遺品であった【〔写真14〕参照】。シュミット氏はそれら青島及び日本の収容所関連の遺品を、インターネット上で以下の6種に大別している。1)手書きの絵葉書(38点)。これらはマイレンダーが両親及び弟に宛てたもの、弟及び友人・知人から本人に宛てたもの、また日本各地の収容所に収容されていた俘虜から本人宛てのものに区別される。弟のアロイス(Alois)が1914年8月21消印でLandonvillersから差し立てた葉書は、日本軍により陥落した後に青島に届き、1915年始めになってマイレンダーの手元に渡ったと見られる。また特に、1914年11月18日にマイレンダーが両親に宛てた絵葉書は、確認されている俘虜郵便の中でも最初期に属するものである。その内容は次の通りである。「お父さん、お母さん、僕は元気でここ福岡に着きました。お父さん、お母さんもお変わりないことと思います。青島で起こったことについては、新聞で読まれたことでしょう。では、またそのうちに。僕達はこの日本が気に入っています。日本の福岡俘虜収容所にて、2等砲兵マイレンダー」。また知人からの葉書には、スウェーデン等の「Globus」(地球連盟)会員からのものが数通ある。このことからマイレンダーはこの「Globus」の会員であったと推測される。他の収容所俘虜からのものを記すと、ハインリヒ・プリルヴィッツ(Heinrich Prillwitz;徳島俘虜収容所)から本人(福岡俘虜収容所)宛て、ハインリヒ・エンゲル(Heinrich Engel;大阪俘虜収容所)から本人(福岡俘虜収容所)宛て、ヨーハン・ベーレン(Johann Behren;大分俘虜収容所)から本人(福岡俘虜収容所)宛て、ペーター・ケルナー(Peter Körner;習志野収容所)から本人(大分俘虜収容所)宛て、ヨーゼフ・ラングハイム(Joseph Langheim;板東俘虜収容所)からハインリヒ・シュペーラー(Heinrich Spöler;大分俘虜収容所)宛て、ルートヴィヒ・ビューヒ(Ludwig Buch;板東俘虜収容所)から本人(習志野俘虜収容所)宛て、ヴィルヘルム・マルティーン(Wilhelm Martin;青野原収容所)から本人(習志野俘虜収容所)宛て、ヤーコプ・ケーニヒ(Jakob Konig;久留米俘虜収容所)から本人(習志野収容所)宛て、ヴィルヘルム・シュロッターベック(Wilhelm Schlotterbeck;青野原俘虜収容所)から本人(習志野俘虜収容所)宛てである。2)他の手書き文書(4点)。これは収容所時代の支払い領収書等の他、1918年5月21日に、クッツホーフの父親から東京のジーメンス・シュッケルト社東京支社を通じて、25マルクの送金があり、300マルク=100円の当時の為替レートから、8円33銭が渡されたことを示す珍しい領収書も遺されている。また、ヨーハン・ヘルマン(Johann Hermann:久留米俘虜収容所から解放後に蘭領印度)からクッツホーフの本人宛ての手紙がある。3)写真(11点)。1912年当時の本人の写真。1914年福岡収容所における、イルチス山守備隊だった海軍膠州砲兵隊第4中隊の集合写真(この中には、クリューガー(K.Kruger)も写っている)。収容所時代の遠足の写真(福岡時代か?)。大戦終結後帰国してからの婚礼の写真(1921年、エンマ・ギール:Emma Gihrと結婚)。1960年当時の自宅の写真等である。4)絵葉書(12点)。青島の破壊された砲台や耶馬溪(大分)の滝と断崖の写真等。5)グラフィック(5点)としては、1918年の習志野でのクリスマス、鉄条網に止まるすずめ、1919年末の喜福丸乗員からの幸運を祈るカードがある。6)催し物のプログラムは24点あり、大分時代の1916年のクリスマス、習志野収容所楽団コンサート、男性合唱団の民謡の夕べ、演劇、体操の夕べ等に関するものである。マイレンダーのこれらの資料は、『クッツホーフから中国、日本へ アンドレーアス・マイレンダーの1912~1920年にわたるオデッセイの旅』(Von Kutzhof nach China und Japan.Die Odyssee des Andreas Mailänder 1912-1920,von Hans-Joachim Schmidt und Karl Heinz Janson)として2001年に本となった。1916年10月18日、ビアルハ(Bialucha)等68名とともに福岡から大分に移送され、1918年8月8日には習志野へ移送された。また、上掲書によるとマイレンダーは第二次大戦後、エーベリング(Ebeling)、ハンス(Hanns)、ヘス(Hoss)、コルト(Kort)、レヒナー(Lechner)及びハンス・フォン・マルティーン(Hans von Martin)中尉とコンタクトを取った。なお、マイレンダーは妻に先立たれ、息子を洪水で亡くすなど、晩年は孤独の内に過ごした。70歳を過ぎた昭和40年代、名古屋に住む日本の女子高生と文通をしたことが、遺された手紙の束から判明した。その女子高生は、習志野市教育委員会の星昌幸氏の調査によって特定された。マイレンダーは習志野時代をしきりに懐かしがっていたとのことである。ザールブリュッケン近郊のクッツホーフ(Kutzhof)出身。(1332:福岡→大分→習志野)
(このページは「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」のホームページから引用させていただきました。http://homepage3.nifty.com/akagaki/)